実は5年しか1軍登板はなかった

 巨人の長い歴史の中で中継ぎ投手として地位を築いた投手の中に越智大祐がいた。たくさん活躍した印象が残っているが、一軍で投げたのはたったの5年。最後の1年はほとんど投げていなかったので、実質は4年となる。

 高校は愛媛の新田高校。正捕手争いに敗れて2年の夏は控え捕手。その後、内野手を経て投手に転向した。卒業後は早稲田大学に進学。1年春から2年秋まで無傷の11連勝を挙げるなど活躍した。その後は伸び悩んだ感はあったが、2005年の大学社会人ドラフトで巨人から4巡目指名を受けて入団。

 プロ入り後は2006年と2007年は1軍登板は無し。大卒ということもあり、結果を残さなければ厳しい3年目を迎えた。開幕から中継ぎとして山口鉄也と共にフル回転。自己最多の68試合に登板した。2009年の開幕前に越智と山口のコンビ名がスポーツ報知で募集されて、風神雷神に決定した。越智は雷神の方である。2009年は不調のクルーンの代わりに抑えを務めることもあった。防御率は前年より少し悪かったが、66試合8勝3敗10セーブ24ホールドと素晴らしい成績を残した。2010年は久保裕也山口鉄也と並んで勝ちパターンで登板する機会が多かった。2009年ほどではないが、そこそこの成績を残す。2011年は開幕1軍を逃したり、不調でファームに落ちるなど42試合の登板に終わった。2012年は開幕を1軍で迎えるが、4月4日の広島戦後に両足の違和感を訴え登録抹消。調整をしていたが回復せず病院で診察を受けた結果、特定疾患指定の難病の黄色靭帯骨化症と診断された。手術を受けて再起を計ったが思う通りに投げられず2014年に戦力外通告後に引退した。

 越智といえばやはりフォークボール。そして、この落差のあるフォークボールで三振をたくさん取っていた。その反面、暴投も多かった。この時代は、先発完投型の投手は今よりかはまだ多かった。その中でも中継ぎの地位の貴重さを築いた投手だと思う。難病になっていなければ、まだ活躍できたと思うので、今思うと残念で仕方ない。山口鉄也のコンビとして、雷神として巨人ファンの心の中に刻まれているだろう。