ユーテリー、キムタク

 4月のこの時期に話題となるのは、やはり木村拓也さんだ。広島と巨人と言うイメージだが、実は入団したのは日本ハムである。日本ハムには今は無いドラフト外で入団。捕手としての出番は中々無かったので、俊足と強肩を買われ外野手に転向。1994年には長冨浩志との交換トレードで広島へ。スイッチヒッターに挑戦したり、内野手に挑戦したりと試行錯誤が続いた。そして2000年には165安打10本塁打と打者としても花開いた。その後は、1番木村拓也、2番東出輝裕とコンビを組んだ。2004年にはユーテリープレイヤー能力を買われ、アテネオリンピック野球代表となった。その後は腰痛などに苦しみ、思うような成績は残せなくなってきた。

 出番を求めて移籍を志願したが、移籍先が豊富な戦力の巨人だった。巨人では不調な外国人2塁手に代わって、試合に出る事が目立った。

 木村拓也を象徴する試合が2009年9月4日の東京ドームでのヤクルト戦。グライシンガーが先発のため、先発捕手は鶴岡一成で、阿部慎之助はファーストのスタメン。阿部慎之助は7回の守備で途中交代。鶴岡も8回に木村拓也の代打のため退いた。残った捕手は加藤健のみ。9回から加藤が捕手、木村拓也はセカンドへ。試合は巨人が追いつき延長戦へ。延長11回に加藤が高木啓充から頭部への死球を受けたため退場となった。よって、12回表の捕手に木村拓也がついた。豊田清田中浩康を中飛に打ち取る。バッター青木宣親のところで、藤田宗一へスイッチ。藤田宗一青木宣親を三振に抑えてツーアウト。続く飯原誉士には四球。ガイエルに右安打。最後に野間口貴彦松元ユウイチを三振に抑えて見事役割を果たす。イニング合計23球だった。

 そして、シーズン後に若手に機会を与えるために出場機会が減ることを考慮した原監督がコーチ就任を打診。これを受諾して引退した。そして、2010年4月2日の広島戦。試合前のシートノック時にホームベース上で倒れた。くも膜下出血だった。それから5日後に息を引き取った。あれから、ちょうど10年の年月が経った。愛称はキムタク。元SMAP木村拓哉とは同学年でもあった。投手以外をこなせるプレイヤーはそう現れないだろう。ユーテリープレイヤーながら、通算1049安打と安打も重ねた。元捕手ということもあり、強肩、俊足、巧打のスタイル。更にスイッチヒッター。プロで生き残って行く術を示した存在でもあった。